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工場で働いているうちに、76年になって文化大革命が終わりました。すると翌年になって、ケ小平の指示で大学の入学試験が復活したんです。それまでの10年間のうち最初の5年は大学が休校で、あとの5年は推薦入学だけで、労働者、農民と兵隊の中から推薦されない限り入学は許されませんでした。だから入学試験をやることになって、その間受験できなかった10年分の希望者が、一気に試験を受けたんです。 |
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あの時は人数が多くて大変だったらしいですね。 |
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私が受験した北京師範大学の日本語専攻は、20名の募集に対して北京市だけでも2000人が応募したんです。その中で、私は一発で合格することができました。 |
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それは、すごいですね! |
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張さんは77年に大学入学でしょ。私が80年に中国に行ったときに、中国政府がアレンジして夜に演劇を見に行ったんです。勉強のために北京大学の日本語専攻の学生を、我々の案内役につけてね。そしたら日本語がものすごく上手だったんですよ。話を聞いてみたら、彼らが言うには自分の村や地区で、大学に入学できたのは10万人のうち1人だと言っていました。当時そのぐらい良い大学に入るのは、難しかったということですね。 |
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北京師範大学に入ってからも、一生懸命努力して日本語を勉強しました。82年1月15日に大学を卒業して、「卒業分配」によって製鉄所に戻ることになりました。3月1日に入社式になる予定でしたが、卒業した翌日の1月16日に製鉄所に行って、人事部門に聞いたら製鉄所の大学で日本語の先生をやってもらう予定と教えてくれました。
そして、日本語を教えてくれた先生を訪ね、その頃先生は製鉄所の翻訳会社の副社長になっていたので、翻訳会社で通訳の仕事をやりたいと先生にお願いしたら、先生は製鉄所の人事部長に電話して私を翻訳会社に入社させたいと頼みました。人事部長は北京市政府も私がほしいという打診もあったと言いました。この情報を聞いたら私はすぐ北京市政府を訪ねました。政府の受付の人にも協力してもらって経済委員会の担当者と会うことができました。
いろいろ確認されたあと政府の担当者に、もう製鉄所に行かないで、3月1日まで返事を待ってくださいと言われました。でも、私は明日から仕事の手伝いをしたいと頼んでみたら、来週に来てくださいと言われました。そして、私は次の週から政府に通い始め、3月1日までにいろいろ仕事の手伝いをして、また、フランス主催の経営セミナーにも参加して、工場もいろいろ見学していました。
その後は、そのまま北京市政府の経済委員会に就職しました。本当は政府で経営セミナーの日本語の通訳の仕事を希望していたのですが、なかなか上の人が認めてくれなかったんです。でも、いつかはやってみたいと思って、ずっとチャンスをうかがっていました。
しばらくしたら、河北省に承徳という町があるんですが、そこで経営セミナーが開催されることになり、どうしても私を行かせてくれと上に頼み込んだんです。 |
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どうしてそこに行きたかったのですか? |
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承徳という町はへんぴな所なので、たぶん日本語が分かる人がほとんどいないだろう、行けば私にも通訳の仕事をするチャンスが回ってくるのではないかと考えたんです。
そしたら、承徳へ行った2週間後に本当にチャンスが来た。ベテランの通訳が、用事があってどうしても帰らなければいけなくなったんです。でも代わりの通訳が来るのに1週間かかるので、その間空白ができてしまう。それで、「張さん、あなたは通訳がやれるかな」と聞かれたんです。もちろん「私はできます!やらせてください」と即答しました。それで次の日、ベテランの通訳が帰る前に、1日だけの試しで私に通訳をやらせてもらいました。 |
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そのときの講師が日本生産性本部の人だったんですか。 |
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そうです。生産管理のコンサルタントの先生でした。それで私が一日立派にやり遂げたんで、ベテラン通訳は安心して帰っていったんです。やがて次の通訳が来たんですが、こんなに先生が早口では訳せないと言うし、学生も私の通訳の方が良いと言う。それでさらに1週間と期間が延びていき、結局3ヶ月間ずっと通訳をやることになってしまいました。 |
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それは大変でしたね。 |
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私が最初にコンピュータと出会ったのも、この承徳です。生産性本部から来た先生が、非常にパソコンが好きな人で私にいろいろと知識を教えてくれました。 それで北京に戻ったら、今度はコンピュータ講座を担当しなさいといわれたんです。
私は与えられた仕事は必ず受け入れて、徹底的にやるというタイプですから「もちろんやります、OKです!」と答えました。 それで、講座開講までの40日間でテキストを翻訳して、印刷まですることになりました。 |
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日本語で書いてあるコンピュータのテキストを? |
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そうです。日本生産性本部の先生が講師で来るというので、使用するパソコンとテキストを、あらかじめ日本から送ってきた。そのテキスト2冊分です。一人だけでは間に合わないので、科学院の技術者にも頼んで、彼らはアセンブラのテキストを翻訳して、私はBASICを全部翻訳したんです。まず中国語に訳して、それからガリ版で中国語版のテキストを作るところまで手伝いました。 |
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中国でBASICを最初に翻訳した人なんですよね。 |
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最初というのは、すごいですね!でも日本語だったら英語をそのままカタカナで表現できるからいいけど、コンピュータ用語を中国語に直すのは難しかったでしょう。 |
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そうですね。初めての言葉が多くて大変でしたけど、なんとかやり遂げました。 |