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張さんの会社はことしで何年目ですか? |
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21年目になります。日本に留学に来たのが87年の4月で、その年の6月に会社を始めました。もともと私は中国で北京市人民政府の役人をしていました。北京師範大学で日本語を専攻して、卒業後に北京政府の経済委員会に就職しました。84年には中国政府の派遣で日本生産性本部の経営コンサルタント養成講座に参加したこともあります。でも、実は日本語を最初に勉強したのは大学に入る前、工場で8年間働いていたときに独学で始めたんですよ。 |
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えっ、そうなんですか!どうして日本語を勉強しようと思ったんですか? |
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工場生活が怖くて、早く抜け出したかったんですよ!私は1970年17歳で中学校を卒業したんですが、当時は文化大革命の最中で、高校が休校でした。それで首都鋼鉄公司の工場に就職したら、1年後にクラスメイトが事故で亡くなってしまったんです。 |
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工場の労働環境が安全ではなかったんですね。 |
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文革中は規律も乱れていて、皆いい加減に仕事をしていました。製鉄所だったから非常に危ない。2年目には私自身も事故に遭って、ガス中毒で倒れてしまいました。でも、死ぬ寸前でなんとか命を取り留めたんです。さらに、今度はガン検査でガンの疑いがあり、直腸を手術しました。3回も続けて「死」というものに直面してから、自分の人生を真面目に考え始めたんです。 |
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まだ若いうちから、早いですね。 |
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とにかく何か勉強して、工場で働く生活から出なければと思うようになりました。それで何が良いかと考えていたときに、ちょうど元総理の田中角栄さんが、日中国交回復のために中国を訪問していたんです。その時家にきた私のおじさんは新聞を見て「この田中さんは昔、(中国の)東北で一緒に働いていた」と言うんですよ! |
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えーっ、ホントですか!? |
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私も最初は信じられなかったんですけど、あとで分かったのが、戦争中に田中角栄さんは中国の東北で兵役についていました。その時ちょうど私の故郷の町にいたんです。 |
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ウソみたいな話ですけど、事実らしいですよ。 |
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私の故郷は中国の黒龍江省富錦県で大地主でした。おじさんは富錦県開拓課の課長もしていました。新潟県の田中角栄記念館では、田中さんが富錦県で入隊した時の写真も展示されています。おじさんが言ったのは事実でした。 そのことがキッカケで日本に興味が湧いて、本を買ってきて日本語を独学で勉強し始めたんです。その後工場の通訳の先生と知り合いになっていろいろ教えてもらったりして、1973年から約5年間ぐらい勉強しました。 |